「知らんけど」について
この記事を見たあなた、初めましてThe.Itacworksと申します。
我々は何者かというと、東京、岐阜、大阪にいながらオンラインで楽曲制作をしていこう!という団体でございます。
誰が見てるかわかりませんが、毎日交代でコラムを書いていこうと思います。
以下本題
メンバーの名前を伏せて書いていこうという話になっていたが、いきなりわかる人にはわかる話をしたいと思う。
関西に来てからやたら耳にする言葉がある。
「○○やとおもうで!知らんけど。」
「いやこれはこういうことやろ!知らんけど。」
「PS4で人生変わるで!知らんけど。」
そう、「知らんけど」である。
あーなるほど、僕が知らないだけで「知らんけど」というのは句読点を表しているんやな!と思うほど連発してくるのである。
このことに気づいたときに聞いてみたことがある。
「知らんけどってなんで毎回つけるん?無責任なん?」と
返答としては「いやだってほんま知らへんもん。」だった。
ほう。しかしここで人生振り返ってみると、「知らんけど」をつけるべきセリフをたくさん言ってきている気がする。むしろ世の中「知らんけど」をつけないといけない会話ばかりではないか??
例えば学生時代
「ぜったいあいつ○○のこと好きだよー」
「えーそんなことないよー////」
なんて会話をしたり聞いたことがあるだろう。これは実際は
「ぜったいあいつ○○のこと好きだよー、知らんけど。」
「えーそんなことないよー////知らんけど。」
のほうが正しい。
なんなら歴史の授業も実際机上の空論を述べている(研究された結果なので空論ではないが)だけなので教師も
「本能寺で明智に包囲された信長は、自ら寺に火を放って自害しました、これを本能寺の変といいます。知らんけど。」
といったほうがしっくりくる。
と、ここまで知らんけどについてしょうもないことを書き連ねてきたが、知らんけどという一言で会話に華が出るように思える。関西人が魅力的に見えるのもこれが要因かな?とまで思う。
「あんたそのままじゃ彼ぴに振られるよ?」というセリフも
「あんたそのままじゃ彼ぴに振られるよ?知らんけど」
になるとどこか後者のほうが話を聞きたくなるのは私だけだろうか。
この精神があるからなのか、関西人は明るい人が多い気がする。
自分の周りを見ると、考えすぎでネガティブの荒波に飲まれていく人が多い気がする。
はたから見ると大したことなくても、本人にとっては重く感じてしまうことが多々ある。気持ちはすごくわかる。けどたいていのことはその時を迎えれば何ともなかったり、一歩踏み出せば解決したり、そもそも考えすぎだったり、なにかあっても思いのほかダメージがないものである。
そう、人生はたいてい何とかなるものである。知らんけど。